第 2回 コオロギに学ぶ攻撃性脳内分子機構
「育ち」がもたらす攻撃性の解明
生まれ持った欲求という名の「本能」。環境が培った「理性」と「感情」。 両者のはざ間に翻弄されて、人も動物も虫も生きている。わずか100日の一生に凝縮されたコオロギに学ぶ新技術とは。
コオロギ
中国には、唐の時代から”闘蟋(とうしつ)”と呼ばれる伝統的なコオロギの相撲がありますが、もともと闘争本能の強いクロコオロギの雄は、他の雄と出会うと必ずといっていいほど戦いをはじめます。
その行動を研究し、興味深い事実が分かりました。隔離して飼育したコオロギは、集団生活で飼育したそれよりも激しい攻撃性を見せたのです。さらに、その隔 離方法によっても攻撃性は変わり、最も凶暴化するのは、透明なケースで他の仲間との接触を絶ち、触覚以外の視覚や聴覚などの情報は与えて育てたコオロギで す。それは「インターネットコオロギ」と名付けられました。通常コオロギの闘いには、威嚇、攻撃、逃走という段階があり、どちらかが逃げてしまったらそこ で終了するので、せいぜい2~3分程度です。しかし、この「インターネットコオロギ」は相手が逃げようと、傷付こうとお構いなしで一時間にも及ぶ攻撃を続 け、死に至らしめます。更に、通常ではありえない、メスへの攻撃も仕掛けるのです。一方、闘いに一度負けてしまったコオロギは、自信を喪失して嘘のように おとなしくなってしまいます。
攻撃的なコオロギの脳を調べ、セロトニンとよばれるホルモンの量が極端に少ないことが分かりました。セロトニンは、人間にとっても気分や感情をコントロールする重要なホルモンの一つです。 コオロギの脳はごま粒ほどの大きさですが、基本的には人間と同じような脳や神経の仕組みを持っていて、セロトニンだけではなく、ドーパミン、ノルアドレナリンといったホルモンも発見されました。それらは全て、人間の気持ちや動きを支配している重要なホルモンなのです。
私達はその日、その時の気分によって行動が変わり、考え方すら変わることもありますが、セロトニンが減ると気分が滅入り、うつになり、逆にセロトニンが増 えると眠くなったりします。その増減は食欲や性欲にも影響しています。かつて、教科書では「昆虫などの行動は本能に由来していて、感情などには由来しな い」と目にしましたが、そうともいい切れないようです。人の気分や感情の変化に影響しているホルモンが、コオロギにも存在している事実。昆虫にも人間同様 の感情があるのかもしれません。
今までにも昆虫の足や関節の動きなどをまねたロボットは開発されてきましたが、現在では、脳や神経、ホルモンの働きを参考にして、ロボットを動かす新発想 の中枢の開発が進んでいます。コオロギに学ぶ攻撃性脳内分子構造の研究は、次世代型の情報システムや人工知能、LSIへの応用が期待されているのです。
昆虫と人間の共通点を解き明かし、感情とホルモンの関係を明らかにする研究。それは、うつ病など”心の病”を治療する画期的な薬品開発にも結実するかも知れません。
長尾 隆司 教授 金沢工業大学 生命情報学科
なぜ、コオロギの研究に没頭しているのか? 実は、私が本当に知りたいのは人間のことなのです。攻撃性や性行動の動機づけ、集団内での強者と弱者の発生。その謎を解く鍵が、コオロギを25年あまり研 究することで明らかになり始めています。わずか100日の一生の中には人間同様の行動が凝縮されており、その機構の解明は、人工知能や有用物質を化学合成 するマイクロリアクター、医療、医薬開発の重要なシーズになるはずです。 高い飛翔力を持つコオロギですが、私の研究室では餌を探す必要がないため、飛ぶことができなくなってしまいました。こうした進化や退化のメカニズムの研究もまた、未来の学習型ロボットの開発などに資するはずです。 1億個以上のトランジスタで制御されているロボット。一方、コオロギの脳の神経は10万個です。わずかな注枢で多様な行動を形にする分子機構の解明は、未来のITや医療技術を育む、知恵と宝の泉なんですね。
現在、世界中の研究者・技術者によって、人工知能やロボットの研究が盛んに行われています。目指すのはやはり「人間の脳」ですが、そこへの第一歩として”昆虫”を参考にする研究が注目されています。 欧米でのコオロギやナマコの行動研究を皮切りに、日本でも、コオロギやアメーバの神経システムを参考にしたロボットが試作され、他にもアリ、チョウ、カブトムシからハエ、ゴキブリ、線虫までと多様な生物を研究材料として情報技術分野では開発が進んできています。 しかし、カイコガのように単純な行動をする脳の仕組みですら、未だ人類は解明することが出来ません。 このような、昆虫や生物の脳神経やホルモンのシステムを解明することで、次の新しい情報技術がはじまってゆくはずです。
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